桜がアスファルトの上で舞っている。桜に攫われそうな人、という例えがあるが、私の目の前にいる彼、ヒカルは実際そんな雰囲気を纏っている。そんな人間が実在するとは、と彼に出会ったとき驚いたものだ。色が白く、髪を薄いブラウンに染めて、中性的な顔立ちに低めの身長。「そんなに弱くないんだけどな」と、彼は言った。
その言葉に私はとても驚いた。彼はそんな私の様子を見て嬉しそうにクスクスと笑った。 「ありがとうございます。そう言っていただけで嬉しいです。自分でも気に入っているんですよ」
作者に会えた驚きはあったが、こんな透明な人が書いていた、という事実は意外ではなかった。
「あっ、ごめんなさい」
思わず視線を逸らした先には、男性が読んでいたであろう桜色の表紙の本があった。
「あ、」と思わず声が漏れる。
男性も私の視線を追いかけて本にたどり着き、
「この本、昨日買ったんですよ。すごく惹き込まれる文章で面白いんです。」
そう言うと男性は愛おしそうに細い指で表紙をつつっと撫でた。
「…これ、私が書いたんです。」
~ それはある夏の昼下がりだった。 にわか雨に降られて、ずぶ濡れになりながら駆け込んだバス停に、ヒカルはいた。 古びたベンチにその透明な風貌はあまりにも浮いて見え、しばし立ち尽くしてしまったのだった。 「あの、」 その声でようやく初対面の男性に見とれてしまっていたことに気付き、濡れた髪が乾くほど羞恥心で顔が上気した。
「ねぇ、初めて会った時のこと、覚えてる?」
「勿論だよ」
ヒカルは笑って答えた。
でも、私は知っている。
私たちの記憶には齟齬があること。
そして、ヒカルはそれに気が付いていないことを。
「僕が頼りなく見えてるんだったら、きっと君が強すぎるんだよ、ミチル。」
綺麗な唇をニッと上げると、私の手を取ってゆっくりと歩き始める。
ミチル、それは彼がつけてくれた名前。
そしてこれから私たちは一緒にヒカルのお父さんに会いにいく約束をしているのだった。
私たちが出会ったのは春先だったから、その時の記憶がことさら彼の儚さを掻き立てるのかもしれない。
風が強く吹いて、地面にたどり着いた桜の花びらをまた空中に舞い上げた。ヒカルが驚いたように目を細める。
「確かに弱くないかもしれないけど。でも、強くもないよね」
私がそういうと、ヒカルは首を横に振った。
確かに、彼が体調を崩しているところは見たことがない。そういう部分は丈夫なのだろう。
しかし目の前の彼からは、どこか脆く儚い印象しか受けない。
視覚だけじゃなくて、まるで私の五感の全てがそう語っているようで。
だからつい、こんな馬鹿みたいなことを考えてしまう。
……彼は、本当に「現実の存在」なのか、と。